初代塾主の時代に
「お邪魔が入った」との言葉を時折、耳にした。
聴くたびに
「それって・・・どうして?」
反発ほど強い感情ではなかったものの
一投の問いを投げかけずにはいられない。
実際、その時々にお邪魔なさるのは
人の霊(幽界人)だったり
神様であったり、御存在様であった。
それはともかくとして
「邪魔」との言葉に、一抹の違和感あり。
どこか排他的で
“無用なもの”といったふうに感じて
「そんなぁ~・・」と切ないような
浮かばれない気持ちもある。それはーー
明白な過去世のトラウマも相俟ってのことだ。
2世前、身体的な欠点を悪く噂されたことを気に病み
「人を愛さない」と決めて、排他的に生きていて
悪く言われるような欠点は無用の長物、
「こんな身体でなければいいのにーー!」
否定的に捉える想いは、排他的以前に排”自”的
自暴自棄となって、わだかまった。
そのような過去世の経緯があればこそ、とかく
「邪魔=無用なもの」と悲観的に捉えてしまいがち
と、同時に
「意味のない(無用な)物事など起こらない」はず。
とも感じていてーー
お邪魔が入るという事態が起こった経緯を
伺えば伺うほど・・納得がいった。
「お邪魔」はーーー
整然とした理由があって起こっていたこと
(少なくとも無用の長物などではない)
本人にとって、不都合と思える事が生じることにより
普段より気がつかずに見過ごしている(あるいは、気づこうとしない)
本人にとっての極めて大事なこと(カルマ・トラウマ・悪想念)を
気づかせるためであることーーー。
ある方は、邪魔されることでーー
考え直す機会をいただいて、出直しされた
ある方は、邪魔されたことを機にーー
自分を省みて、傲慢であったことを自覚され
意識的に諭し続けて、改心された
ある方は、お邪魔によってーー
これまでのやり方(生き様)を見直さざるをえなくなり
結果的に、よりよい方向へ向かう転機となった
当時の
“お邪魔なされた方々” は
邪魔される人々同様、自らの悪想念に絆されることで
ある面、憎まれ役?を成し、邪魔者に徹して
その役目を全うされ、去っていかれたがーー
過去の時代時代より、
幸せに在れない障りや不具合を抱え続けている人々の
心を揺さぶり、その生き様や在りように問いを投げ掛けては
様々な気づきと幸福の自覚を促している
いわゆる
“メッセンジャー”であったのだ
敬愛と感謝をこめて
ごめんなさい
ありがとうございます
愛しています